インターナショナル・スタイルとモダニズム建築の三大巨匠

インターナショナル・スタイルとは

建築家ル・コルビジェのサヴォア邸に代表される、1920年代から50年代にかけての近代建築のスタイル。

地域の特性や環境などにとらわれない、世界に共通する普遍的なスタイルをめざした。

<インターナショナル・スタイルの特徴>

・モノトーンで無装飾
・合理主義かつ機能主義的
・直線的な造形表現
(キュービックな建物本体、フラットな陸屋根、連続するガラスのカーテン・ウォールなど)
・内部空間の自由な間仕切り

 

きっかけとなった本

インターナショナル・スタイル
THE INTERNATIONAL STYLE: ARCHITECTURE SINCE 1922

「インターナショナルスタイル」という呼び名は、1932年フィリップ・ジョンソンとヒッチコックによってかかれた本のなかで定義され、その後一般に広まった。彼らはコルビジェの作品を軸にしながら、当時流行していた建築要素をまとめあげてひとつのスタイルとした。その特徴を以下のように定義している。

「近代建築の3原則」

・ボリュームとしての建築
・規則性を持つ建築
・装飾忌避の建築

MOMA インターナショナルスタイル
The Museum of Modern Art Archives, New York ,1932

1932年、MOMA(ニューヨーク近代美術館)で「Modern Architecture: International Exhibition」がおこなわれ、これをきっかけに『インターナショナル・スタイル:1922年以後の建築』が出版された。

フィリップ・ジョンソンフィリップ・ジョンソン
1906-2005(満98歳没)
アメリカの建築家
出典:wikipedia

フィリップ・ジョンソンのガラスの家ガラスの家(自邸)
1949 NY マンハッタン ニューカナン
設計:フィリップ・ジョンソン
by Helder Mira

 

モダニズム建築の三大巨匠

1.ミース・ファン・デル・ローエ

「less is more」

より少ないことは、より豊かなこと。詩の一節から引用されたもので、ミースの建築やミニマリストの考えを表したことばとして知らている。物事は洗練されればされるほどシンプルになる傾向にあるんだろう。

ミースはWW1で従軍経験があり、さらにナチスによってバウハウスが閉鎖されてからアメリカへ亡命した。時代の波を強く受けている。この時代は、ヨーロッパの多くの芸術家がアメリカへ亡命している。幸いアメリカへの亡命がきっかけで仕事が増え、活躍の場が広がった。私生活では女性関係でしくじったり、キャリアは晩年に名作が多い遅咲きタイプ(バルセロナパビリオンの設計は43歳)。バウハウスの第三代校長や、シカゴのアーマー大学(後のイリノイ工科大学)建築学科の主任教授を務め、教育にも才能を発揮した。

2.ル・コルビュジエ

「住宅は住むための機械である」

コルビジェは、「明確な目的を持つ機械を賛美し、建築もそれに習うべきだ」と主張した。1920代頃からモータリゼーション(自動車の大衆化)がはじまり、住宅と自動車を重ね合わせるような表現を使っている。サヴォア邸も自動車ありきの生活をもとに設計された。

コルビジェがここまで後世に名を残す建築家となったのは、修業時代にオーギュスト・ペレ、ヨーゼフ・ホフマン、ペーター・ベーレンスらに会っていたことが大きい。彼らの技術をまとめ吸収することで、新しい時代の建築を担う人物となっていった。同時代の誰よりも、近代建築の類型学を練っていたといわれる。コルビジェの建築は、真白で直線的な造形スタイルが印象的だが、生涯を通してみると時代や地域によってかなり変化している。

3.フランク・ロイド・ライト

「長く生きるほど、人生はより美しくなる」

ライトの母親は彼を建築家に育てようと教育熱心で、彼は幼いころから建築の世界に親しんで育った。大学を中退してシカゴにうつり住み、ルイス・サリヴァンの指導のもと6年間経験を積んでいる。26歳のころに独立しているが、施主の妻と不倫旅行に出掛けてスキャンダルをおこしたり、そんな性分が影響してかキャリアの浮き沈みが激しい。私生活はかなり問題のある人と伝えられている。帝国ホテルの設計で日本との関わりがあり、日本の建築教育にも大きく貢献した人物。

<近代建築の四大巨匠>

もうひとり、ヴァルター・グロピウスを加えて、近代建築の四大巨匠と言われることもある。

 

1.ミース・ファン・デル・ローエ

ミース・ファン・デル・ローエミース・ファン・デル・ローエ
1886-1969(満83歳没)
ドイツ出身の建築家
出典:wikipedia

<ミースの略年譜>

1896 石工の父を手伝い、カテドラル付属学校で学ぶ
1908 ペーター・ベーレンスの事務所勤務 コルビジェ、グロピウスもいた
1912 ベルリンで独立
1914 WW1のため従軍 リヒター、リシツキーらと交流
1922 「デ・ステイル」に参加
1930 バウハウスの校長に任命される
1933 バウハウス閉鎖
1938 アメリカへ亡命 シカゴ建築学校(イリノイ工科大学)校長
1950 ファンズワース邸宅、施主は愛人
1969 癌で死去

ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナパビリオンバルセロナ万博ドイツ館
1929 1986再建 スペイン バルセロナ
設計:ミース・ファン・デル・ローエ
出典:wikipedia

ミース・ファン・デル・ローエのトューゲントハット邸トューゲントハット邸
1930 チェコ ブルノ
設計:ミース・ファン・デル・ローエ
出典:wikiipedia

ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸ファンズワース邸
1950 イリノイ プレイノ
設計:ミース・ファン・デル・ローエ
出典:wikipedia

床と屋根の2つのスラブ(8.5×16.8m)が、8本のI型鋼によって空中で支えられている。

 

2.ル・コルビュジエ

ル・コルビュジエ
©Centre Pompidou, Mnam-Cci, Dist. RMN-Grand Palais / Gisèle Freund, reproduction de Guy Carrard – ©RMN gestion droit d’auteur/Fonds MCC/IMEC

ル・コルビュジエ
1887-1965(満77歳没)
スイス出身、フランスの建築家

<コルビジェの略年譜>

1900 時計職人を目指し地元の美術学校に入学
1904 美術装飾高等科へ進学、建築を学ぶ
1907 イタリア旅行でパラディオのヴィラに感動する
1908 ペレのアトリエ入所、RC技術を学ぶ
1910 ドイツ工作連盟を訪問 ベーレンスのアトリエ入所
1918 ピュリスム宣言
1920 「エスプリ・ヌーヴォー」創刊
1922 ピエール・ジャンヌレと建築事務所設立
1926 「近代建築の5原則」提唱
1928 CIAM開催
1930 フランス市民権取得
1952-59 チャンディーガル都市計画
1955 国立西洋美術館設計のため訪日
1965 南仏の海で死去

 

<ドミノ・システム>

WW1で罹災したフランドル地方の住宅復興のためのプロジェクト。RC造を使えば壁はいらない、現場に放置されているレンガを利用すればいいという考え方。近代建築の基本構造は、柱・床スラブ・階段に還元でき、壁や窓は自由に付け外し可能なことをしめした。

この方法だと、鉄筋を使って大量生産ができるので、低価格で集合住宅が建てられる。

コルビジェのドミノ・システムドミノ・システム ,1914
© FLC/ADAGP

Maison Citrohanシトロアン住宅 ,1922
© FLC/ADAGP

ピロティによって建物全体が浮かび上がって見える住宅を初めて発表する。

エスプリ・ヌーヴォー館
1925 フランス パリ
設計:ル・コルビュジエ
© ADAGP, Paris 2015

プラン・ヴォアザン
The model of the Plan Voisin for the reconstruction of Paris displayed at the Pavilion of the Esprit Nouveau ,1925 © FLC/ADAGP

アール・デコ博についてはこちら→

コルビュジエのスタイン邸スタイン邸
1927 フランス パリ郊外
設計:ル・コルビュジエ
©FLC/ADAGP

コルビジェのスタイン邸
©FLC/ADAGP

<コルビジェが嫉妬したデザイナー>

同性愛者で私生活はなぞの多い女性。彼女が設計したE1027には、コルビュジェも度々訪れていて勝手に壁画を描いたりしていた。彼がこの住宅を気に入り住み着いていたじきも

ジェの作品として数えられるなど、アイリーンの名は歴史から抹消されかけたこともある。2人のあいだには確執があったとも言われていて、コルビジェはE1027の前の海で溺死している。

アイリーン・グレイアイリーン・グレイ
1878-1976(満98歳没)
アイルランド生まれ、フランスで活躍したデザイナー、建築家

 

E-1027
1929 フランス コート・ダジュール ロクブリュヌ= カップ=マルタン
設計:アイリーン・グレイ
© Manuel Bougot

<アカデミズムへの反発>

1927年におこなわれた国際連盟本部設計コンペで、ボザール流の保守的な建築家が、コルビュジエの計画案を規約違反だとして排除した。理由はひどいもので、応募した図面のインクが規定のものではなく、青焼きだからというもの。

明らかに抜きん出た案を提出していたコルビジェだったが、審査員たちは最終選考を行わず、棚上げした。最終的には、仕切り直しで4人のアカデミー派の建築家チームが指名されたが、結局コルビジェの案に似たものが出来上がる、、似てはいるが駄作であったため、逆にモダニズム建築の勝利が浮き彫りとなった。

コルビジェはアカデミズムへの反発から、モダニズムの建築家を集め、翌年CIAMを開催する。

ジュネーブ国際連盟競技設計
ジュネーブ国際連盟競技設計(案),1927 ル・コルビュジエ,ピエール・ジャンヌレ © FLC/ADAGP

<CIAM「近代建築国際会議」の設立 ,1928>

1928-1959年の30年間、世界のモダニズムの建築家、都市計画家、評論家などを交えて、建築の未来についての国際会議をおこなった。中心人物は、コルビジェ、グロピウス、建築史家のジークフリート・ギーディオンなど。パトロンはスイス人のド・マンドロー夫人。

第4回のテーマ「機能的都市」で討議された内容の成果は、のちに「アテネ憲章」としてまとめられ、高層建築のみの街区形成や、機能別のゾーニング計画について、近代都市計画のフォーマットとなり、特に第二次世界大戦後の世界の都市計画はこれをもとにつくられた。内容は、コルビュジエが提唱した「300万人の現代都市」「ヴォアザン計画」「輝く都市」の主張に沿ったものだった。

日本でもコルビジェの機能的都市に則って都市計画がおこなわれ、建物の用途が規制される都市計画区域などはこれの名残。

『アテネ憲章』
「機能的統一体」の考え方。”都市というのは、労働、住居、余暇、交通である”と定義し、また、太陽、緑、空間を持つべきとした。都市を構成する機能を抽出し、それらをどう結びつけるかが主題となっている。

『空間・時間・建築』
建築の四次元性、時間の概念の導入。キュビズムとの同時代性が関連している。

1950年代頃になると、結成当時のメンバーが高齢化したこともあり、戦後の討議は戦前の繰り返しになってしまった。第10回をもって解散となり、同時に新しい世代のグループとして「チームX」(ten)が発足。リーダーはスミッソン夫妻。

チームXについてはこちら→

CIAMは歴史や伝統にとらわれずに、普遍的、合理的な建築を目指した反面、機能重視によりすぎだと、しばしば批判された。実際の都市に適応されるなかで矛盾を生じた部分も多かった。

<郊外のスプロール化>

機能の分離によって都市の高密度化が起こり、それが都市近郊のスプロール化を生み出す原因の一つとなっている。環境整備が追いつかずに、周辺道路とのアクセスを無視して、民間業者が無秩序に都市郊外の住宅整備が進めてしまうことが原因。

スプロール化現象
Christoph Gielen, Deer Crest V, Suburban California, 2008 via colby

<コルビジェの名作>

サヴォア邸は、パリに住む富裕層の夫婦が週末を過ごす別荘として設計された。コルビジェが考えた大きなコンセプトは、ルネサンス期のイタリアの建築家、パラディオのヴィラ(郊外に建つ邸宅)を進化更新することだった。

サヴォア邸のデザインは、コルビジェがそれまでに体得した住宅設計の経験知識がふんだんに盛り込まれ、集大成的なものとして設計されている。「近代建築のための5原則」が完璧なかたちで実現された。

ほとんどすべての部分では、当時高価だった鉄筋コンクリートが使われ、基本構成は柱とスラブによって組み立てられている。荷重を支える耐力壁が不要になり、内部の仕切りの制約もなくなって、室内にはどんな材料を使ってもよくなった。それによって、2階にあるテラスを取り囲むように、手で簡単に左右にスライドさせられるガラス扉を採用できた。

当時流行していた絵画運動のキュビズムを背景に、人々に錯覚をおこさせるような仕掛けが盛り込まれている。平面図上は正方形だが、キャンチレバーや横長の窓により建物の水平ラインが強調され、横長の長方形のように感じたり、華奢な支柱によって、まるで家が浮いてるかのような印象を受ける。視覚的な印象操作が計算されている。

連続する横長のガラス窓は、従来の一般的な窓の形状に比べておよそ8倍もの自然光が入るように見積もって設計された。

コルビジェのサヴォア邸サヴォア邸
1931 フランス ポワシー
設計:ル・コルビュジエ
Photo : Paul kozlowski
© FLC/ADAGP

コルビジェのモデュロールモデュロール,1948
人体寸法、フィボナッチ数列、黄金比に基づいて考えられた建築の基準寸法

コルビジェのユニテ・ダビテシオンユニテ・ダビテシオン
1952 フランス マルセイユ
設計:ル・コルビュジエ
出典:wikipedia

コルビジェのユニテ・ダビテシオンroof top deck and pool via wikipedia

チャンディガール・マスタープランチャンディーガル・マスタープラン
1950-65 インド チャンディガール
設計:ル・コルビュジェ
© FLC/ADAGP

ゾーニングの採用、それらをつないで、自由曲線でデザインされたグリーンベルトがグリット状に配置されている 気候の配慮が不十分でうまく機能しなかった。

ロンシャンの礼拝堂ロンシャンの礼拝堂
1955 フランス ベルフォール近郊
設計:ル・コルビュジェ
© FLC/ADAGP

戦災で破壊された山上の教会の復興 瓦礫を積んで壁にして再利用した。屋根は鉄筋コンクリート造シェル。

ラ・トゥーレット修道院ラ・トゥーレット修道院
1960 フランス リヨン近郊
設計:ル・コルビュジエ
via ARCHIEYES

 

3.フランク・ロイド・ライト

フランク・ロイド・ライトフランク・ロイド・ライト
1867-1959(満91歳没)
アメリカの建築家
出典:wikipedia

<ライトの略年譜>

1885 ウィスコンシン大学土木科入学、中退 シカゴに出て、L.サリヴァンの事務所で働く
1893 独立
1904 チェニー邸の施主の妻と不倫
1906 ロビー邸(有機的建築)
1909 欧州へ駆け落ち→仕事激減
1911 帰国
1912 自宅兼工房のタリアセンを設立
1913 帝国ホテル新館設計のため訪日
1914 使用人がチェニー夫人らを惨殺、放火
1943 NYグッゲンハイム美術館の設計依頼
1936 落水荘
1959 フェニックスで死去

フランク・ロイド・ライトのミラード邸ミラード邸
1923 カリフォルニア
設計:フランク・ロイド・ライト
©Scott Mayoral/CentralMeridian

透かし細工をほどこしたコンクリートブロックを使用。1920代のミースは、質素で安価なコンクリートブロック製の住宅開発に強い興味をもっていた。

フランク・ロイド・ライトの落水荘落水荘(カウフマン邸)
1936 ペンシルベニア ミルラン
設計:フランク・ロイド・ライト
出典:wikipedia

有機的建築についてはこちら→

フランク・ロイド・ライトのジョンソンワックス社ジョンソンワックス社
1936 ウィスコンシン ラシーン
設計:フランク・ロイド・ライト
出典:wikipedia

円と円の隙間は耐熱ガラスが張られ、そこに照明器具が組み込まれている。

フランク・ロイド・ライトのグッゲンハイム美術館ソロモン・R・グッゲンハイム美術館
1959 ニューヨーク マンハッタン
設計:フランク・ロイド・ライト
出典:wikipedia

EVで最上階へ行き、螺旋状の斜路を下りながら絵画鑑賞するという独特の動線計画。子供がヨ~ヨ~で遊んでいるライトのスケッチからは、美術作品だけでなく空間そのものも楽しんで欲しいという思いが感じられる。

© The Frank Lloyd Wright Foundation, Scottsdale, Arizona

 

イギリスの「インターナショナル・スタイル」

ロンドンのペンギンプールPenguin pool – London Zoo
1934
設計:バーソルド・リュベトキン(テクトン)
出典:wikipedia

via wikipedia

ロンドンのハイポイントHighpoint I
1935 イギリス ロンドン
設計:バーソルド・リュベトキン(テクトン)
by Stephen Hoper

 

関連書籍

『インターナショナル・スタイル』(SD選書 139),P・ジョンソン、H・R・ヒッチコック(武澤秀一訳),鹿島出版会,1978
『建築をめざして』,ル・コルビュジェ (著), 吉阪 隆正 (翻訳),鹿島出版会,1967
『XKHOME特別編集9 20世紀建築の巨匠 (エクスナレッジムック X-Knowledge HOME特別編集 No.) 』エクスナレッジ,2007
『小さな家―1923』ル・コルビュジェ (著), 森田 一敏 (翻訳),集文社,1980

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